2013年8月31日土曜日

石津神社旭ヶ丘御旅所

石津神社の御旅所があるということで
石津神社旭ヶ丘御旅所へ行きました。

住宅街にすっぽり収まっています


あるとは書いてあっても、はっきり何処とは
よくわからないので、とりあえず旭ヶ丘へ。

国道26号線から上石津ミサンザイ(履中天皇陵)古墳の方(西)が
旭ヶ丘らしいので、とりあえず歩いてみましたがさっぱり
わかりません;;

途方に暮れていたら、もうすぐお祭りがあるのでだんじりの
通るコースが電信柱に貼ってあって、御旅所載ってる!
ということで、めでたくたどり着きました。






 
 
でも、蛭子が流れ着いたという石津太神社発祥の地である
「石津の磐山」ではないと思う・・・
いくら大昔でもここは海岸ではないはず。

またそのうち探してみたいです。

ちなみに東酒呑古墳(履中陵陪塚)のすぐ近くでしたが、東酒呑古墳は
住宅に囲まれてほぼ見えない古墳ですので目印には全くなりません・・・






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2013年8月30日金曜日

石津太神社

石津神社から海の方角の西へ約1キロの所に
石津太(いわつた)神社があります。


阪堺電軌石津駅から北西方向へ徒歩約5分



蛭子が「天磐樟船」で流れ着いた「石津の磐山」に神石を置いた所が
石津太(いしづのおお)神社となり、この石津太神社と石津神社のいずれかが
本社と分社か御旅所ではと言われていますが、御旅所も石津太神社発祥の地
としてあるそうです。



拝殿
北拝殿祭神:蛭子命・八重事代主命・天穂日命
南拝殿祭神:建御名方富命・誉田別命・靱太神宮
 



どちらの神社も樹齢の古い楠が繁り、古くからのこの地域のお宮さん
という感じです。

孝徳・孝謙・後醍醐天皇の行幸の記録があったり、豊臣秀吉が大阪城の
裏鬼門として崇敬したりと、かなり昔から大きな神社であったようで、
石津大社と呼ばれていたこともあるようです。



楠の大木


こちらの神社では、蛭子が流れ着いた時に火を焚いて迎えた事にちなみ
毎年12月14日に火渡神事「やっさいほっさい」が行われているそうです。

蛭子を迎えた時の藁束が八束と百束から「やっさいほっさい」となったと
ありましたが、堺辺りではだんじりの掛け声でもあります。



鳥居の前の交差点に「五色の石」があります。


八町四方あったという境内の本殿跡という所
蛭子が持っていた五色の石を埋めて神社の御神体としたという





















駐車場有りとありましたが、夕方4時過ぎだったせいか
鳥居と本殿の間の駐車場らしきスペースは封鎖されて
いました。



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2013年8月29日木曜日

石津神社

石津(いしづ)神社は、乳岡古墳から徒歩約5分位の所にあります
(車だと国道26号沿いにあるので、少し遠回りになります)。

イザナギ・イザナミの神の最初の子供である蛭子が淡路島から
流されてここへ着き、持っていた五色の神石を埋めたので
石津という地名になり、石津太(いわづのおお)神社ができたそうです。

石津太神社は最古の戎社と言われていますが、もう少し海側に
石津太(いわつた)神社が有り、元々はどちらかが本社で、どちらかが
御旅所か分社であったのではとのことです。

また蛭子が漂着したと伝承される御旅所は、石津川北岸の
元海岸の地にあるとのことです。




第5代孝昭天皇7(紀元前475)年8月10日創建の社伝


国道26号線沿いにあります
熊野街道沿いでもあります



元の名は石津太(いわつのおお)神社



御祭神:八重事代主命(戎神)・大巳貴命(大国主神)・天穂日命
後にこの地を賜ったという土師氏の祖・野見宿祢が神官となったという




キレイな蛙股

神社のHPに普段のお参りの方は5台位なら駐車可とあったので
入らせていただきました。
推定樹齢千年、700年という楠の大木がある静かな境内です。






2013年8月24日土曜日

ロイヤルホストのカレーフェア

それほどロイヤルホストが好きという訳ではないのですが
毎年夏に行われているカレーフェアはここ数年欠かさず
行っています。

まあ、季節の食べ物という感じでしょうか~



十八穀で食べる海老のアジアンカレー 1,449円


乳岡古墳から車でなら5分位の所に
ロイヤルホスト石津川店があります。

2013年8月23日金曜日

百舌鳥古墳群6~乳岡古墳

百舌鳥古墳群で最古の古墳とされる
乳岡(ちのおか)古墳

このあいだ現地説明会のあった長山古墳を含めていない
現状の百舌鳥古墳群では最も西にあります。


北側の道路より
ライフ石津店・コーナン堺店の道向かい
サカイ引越センターが右手に見えています




関西電力南大阪営業所の西隣にあります

大きい道から関西電力と神石小学校の間の道を曲がって関西電力の敷地沿いに少し歩けば説明板などがある所へ行けます。

西側からだとかなり細い住宅地の中の道をうねうねと歩くのですが、東側からだとあっさり着けます。









4世紀後半
前方後円墳(全長:約160m) 葺石有り
後円部:三段築成 前方部:二段築成と推測される
一重の周濠(幅約32m)の埋没が確認されている


昭和47年の発掘調査により、後円部のほぼ中央土壇より
粘土に被覆された長持形石棺(和泉砂岩製か)が出土
(開けられた痕跡有り・開けずに埋め戻されたとのこと)。

周囲より腕輪型石製品(鍬形石3点・車輪石18点・不明1点)、
現在のところ百舌鳥古墳群最古の円筒埴輪出土。



堺市役所の展望ロビーに展示してある
乳岡古墳出土の鍬形石(左)と車輪石(右)の一部




佐紀陵山古墳と相似形ともいわれる和泉黄金塚古墳と
墳丘の相似形の可能性が指摘されている。
(つまり乳岡古墳も佐紀陵山古墳と相似形か)。

伝承としては「石津連祖野見宿祢墓又云乳朝臣墓乎」(『泉州誌』18世紀)
「仁徳天皇乳母」「履中天皇乳母」の墓というものがあるそうで、
乳岡というのは乳母というのからきたのか、乳母から乳岡となったのか・・・





 
後円部頂上に浄土宗乳岡山攝収院念仏寺があった
移転・売却の計画により発掘調査(S47)→史跡指定(S49)




国史跡の石碑 ↑ 
かろうじて頭だけ見えてました;





前方部は昭和初期頃までに削平される
残っているのは東端の一部でこの右側が前方部があった所
残存の後円部:径94m・高さ14m
 






一番近くに寄れた北側から
・・・ちょっと裏さびれたカンジ・・・


余談ですが、乳岡古墳の北方に亀塚という小字名があり、
『和泉志』(1736年)に履中天皇陵の近くの古墳としてあげられて
いた「龜冢」の可能性があるそうです。
いつか長山古墳のように発掘されるかもしれませんね~





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2013年8月13日火曜日

羅城跡

同じ大和郡山市といっても遠いのですが、うなぎの川はらからの
帰り道に寄ったイオンモール大和郡山の敷地の一角に
平城京羅城跡のモニュメントがあります。


イオンモール大和郡山の北端は九条通
モニュメントは敷地の北西隅にあります



夜はライトアップ?


羅城とは都の南を限る柱列のこと






























イオンモールから5分程西へ歩くと西九条緑地という公園があり
羅城門跡の碑があります。



佐保川を超える手前の道路南脇の公園
 


羅城門跡の碑



万葉歌碑などもたくさん建っていますが
かなり人が来ない公園のようです




佐保川に架かる羅城門橋から左(東)の西九条緑地をみる
佐保川がかつての朱雀大路だった






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2013年8月12日月曜日

うなぎの川はら

各地で気温が40℃を越えようかという暑すぎる今日この頃で
食欲もガッタリ・・・
今年は土用の丑の日にも鰻食べてないなあということで、
大和郡山にあるうなぎの川はらに行きました。



大和郡山ですが法隆寺に近いです
奈良市三条に奈良店もあるとか


 
 昼 11:00~14:30 夜 17:00~20:30
無休ですが今月はお盆の振替休みがあるそうです
お昼時には順番待ちしてました


前に来たのは1年程前だったと思います;
めっきり高級品になった鰻を家で食べることは全くないので
一年に1,2回美味しい贅沢をすることにしています。

こちらのお店には四万十川の天然鰻もあるらしいですが
さすがに手が出ませんね~;;




うな重 3,190円(ご飯大盛100円UP)
肝吸い・冷奴・漬物・りんごゼリー付



うな丼・竹 1,970円
肝吸い・漬物・りんごゼリー付
(ご飯多めです・・・残してしまいました;)

国産鰻を備長炭で焼いた関西風の鰻です。
美味しかった\^^/




2013年8月6日火曜日

百舌鳥古墳群5~檜塚古墳

長山古墳から5分ほど南側にある檜塚古墳
クボタ堺製造所の敷地内にある古墳です。

上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)の陪塚として
宮内庁が管轄していますが、外からは全く見えずGoogleマップの
航空写真で存在を確認するのみです。
ネットで色々検索しても、写真も見たことないです。

一応前方後円墳となっていますが、詳細は全く不明です。
(墳長は約25mらしい)
履中天皇陵古墳からも結構遠いので、陪塚というのもピンと
来ません;

現状はどうなっているのでしょうか?
実物見てみたいなあ・・・
クボタの工場見学とかないかしらん。



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2013年8月4日日曜日

長山古墳 現地説明会

百舌鳥古墳群の中に江戸時代の絵図でのみ知られていた
長山(長塚山)古墳が発掘調査で確認され、8月3日(土)に
現地説明会が行われました。

所在地:堺市堺区協和町1丁40番
市営住宅の建替えに伴う発掘調査で見つかったとのこと



100人近くの見学者がいたのではないでしょうか
職員の方は暑い中熱心に説明してくださっていました




まさに真夏のまっただ中の午後1時~4時開催ということで
1時前に着いたらすでに始まっていましたので、次の説明から
じっくり聞かせていただきました。


前方部
左(北)側に後円部がある


長山古墳は「長塚山」「長塚」と呼ばれ、百舌鳥古墳群では最も海に近い
西側に立地しています。

江戸時代(17247年)の地図では既に後円部の無い前方部のみが塚として
描かれており、1928(昭和3)年の航空地図では既に前方部も無く、地割等から
かろうじて前方後円墳の墳形と周濠の痕跡が推測できるのみで、今回の
発掘調査でも墳丘の大部分は削平されていたそうです。

百舌鳥古墳群で最古とされる乳岡古墳が近くにありますが、築造年代も
ほぼ同時代の4世紀後半と思われます。

武内宿禰の墓という伝承があるそうですが、仁徳天皇陵古墳のすぐ南側にある
長塚古墳にもそのような伝承があるので、混同されているのかもしれませんが、
記紀の時代的にはこちらの方があってるんでしょうかね??

名前が似てる古墳が多いのでちょっと紛らわしいですが、昔からそう呼ばれている
のだから仕方ないですね~





前方部 手前側が後円部方向
墳長約100m(未確定)
百舌鳥古墳群で9番目の大きさ

突き刺すように葺かれており、裾のラインがまっすぐなのが特徴的
所々真っ直ぐ縦に並んでいるように見える所があるという
(私にはよくわからなかったですが・・・;)
 
葺石は泉南地域と六甲の御影石だそうです。
この地域は大きな石が取れないそうです




後円部
正直ただの工事現場みたいです;






結構行列でした

蓋形埴輪(肋木)
車輪石は前方部の墳丘裾の周濠埋土中より出土↑
埋葬施設が破壊された後周濠内へ転落?





鰭付円筒埴輪の破片 ↑
大部分が墳丘裾の周濠埋土や転落した葺石に混じって出土
元々の位置を保っていたものは無いそうです



暑かったので説明を聞いて出土物を見てすぐに退散しました;
4時前に行った方が空いてて良かったかもしれませんが、何だか
ワクワクするのが現地説明会・・・
博物館できちんと美しく並んでいるのとは違う、新鮮ホヤホヤ感
みたいなのが楽しいですね。

出土遺物は近くでまた公開するそうです(よく聞いてなかった;)。


阪堺電車東湊駅から徒歩約5分。







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