2013年12月30日月曜日

竹内街道を歩く1~1400年記念~

堺東~三国ヶ丘間にある道標
 

大阪と奈良を東西に結ぶ竹内街道
日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に、
「難波(なにわ)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された
「大道」のルートと重なることから、日本最古の官道と呼ばれています。

今年2013年は、613年から1400年ということで様々なイベント等が
ありましたが、私も1400年記念に竹内街道を歩こうと思いつつ、とうとう
今年も残すところあと2日!
寒いしもういっか~と思っていましたが、いや、やっぱりちょっとだけでも
歩こう!!と29日の年の瀬真っ只中に、スタート地点の大小路へやってきました。
13時出発です。

なお、大阪府のHPにある歴史街道ウォーキングマップを頼りに歩きます。



大小路から東へ向かいます。



大小路の交差点の東側


南北方向の道は紀州街道


すぐに南へ逸れて、開口(あぐち)神社へ寄りました(15分程)。
竹内街道の西端にあたります。
交通の神様のようです。

 


神功皇后の創建と伝えられる
奈良時代には開口水門姫神社と称された港守護の神社とのこと
 


祭神:塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)
素盞嗚神(すさのおのかみ)・生国魂神(いくくにたまのかみ)



もとの道に戻って東へ歩きます。
堺市役所を過ぎて堺東駅前の道を右へ曲り、新町の交差点を左(東)へ曲って
踏切を渡ります。
この辺りで13時30分。寄り道していなければ15分位で市役所です。

市役所の展望ロビー(過去ブログはこちら)に寄るのも良いですが、今日はスルー。


新町交差点




踏切を渡って振り返ると↑堺市役所が見える



道が綺麗に舗装されている
右へ行くと高野街道


中央環状に出てきました(向陵西町交差点)

向陵西町で中央環状線に出たら、左(東)へ中環沿いに
向陵中町まで10分程歩きます。


向陵中町交差点


リカリカ
向陵中町交差点にあるリカリカはフレッシュジェラートのカフェです。

私はミルクジェラートが好きなのですが、
あまりに寒いので今日はスルーです。

食べるのに寒いのと、あまりに風が冷たいので帽子・マスクの私は何だかカフェには来そうにないアヤシイ者なので;



このお店は駐車場が無いので良いチャンスなのですが;
季節が良ければ食べながら行けるのになあ。





かっぱ寿司の(東)隣  ↑  がリカリカ


向陵中町交差点を南に渡り、府道より中環側の道へ入ります。
この辺りで14時。

うどん屋さんの「のらや」の方です


ここからしばらく何の標識も無く、私はほんとにこの道であっているのかと
何度思ったかわかりません;;
心掛けるのはただまっすぐです。
住宅地の中、府道の一本北側位をただまっすぐを心掛けて進みます。

すると・・・

左(南)側に植木病院という大きい病院があります
 この公園に竹内街道の看板があって、やっと道が合っていた
 ことに安堵;;

この間が短いながら一番心もとない道でした。

そのまま進んでいくと鉄塔の側に公園があります。
その名も長曽根竹ノ内公園。
 

↑           左端がアンジェラ


公園の北側にアンジェラというケーキ屋さんがあります。
以前に抹茶のエクレアを何度か買ったことがあります(今もあるかな?)。
2Fにカフェもありますがやはり今日はやめておきます。

テイクアウトして公園で食べようかなとも思いましたが、寒すぎてやめました。
でも、この辺りで14時30分くらい。
休憩ポイントには良い所です(公園にトイレは無いです)。



アンジェラ

大きい道を渡ってまた住宅地を歩いていくのですが、その
大きな道沿いに大木が見えたので行ってみると、
楠塚公園とありました。金岡神社の御旅所だそうです。

寺西化学工業株式会社HPの付録ページという所に
この楠と金岡神社の楠のことが詳しく載っていました。
 
ここも休憩しやすそうですね(やはりトイレは無いですが)。


正式名称は金岡神社・西之宮頓宮だそうです



ルートに戻って、またまっすぐを心掛けて、少々心細く歩いていると
金岡小学校の通学路に道標がありました。
こんなに狭い所に建てれるのなら、もう少し道標を増やして貰えると
有難いんだけどな~と思ってしまいました。



 
小学校の塀に昔の竹内街道の絵がありました


そのままもう少し歩くと金岡神社です。



昔参道だった所は月極駐車場になっているようで;



まっすぐ歩くと神社に着きます



金岡神社は仁和年間(885年頃)に創建され、
日本画の祖といわれる巨勢金岡(こせのかなおか)を祀ったことから
金岡神社と言われているそうです。



祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)
素盞嗚尊・大山昨命・巨勢金岡




神社の南側に竹内街道が続く
   道標はここ  ↑






道が綺麗に整備されています


中環に出てきました。15時位です。
大泉緑地交差点で緑地公園の方へ渡り、中環より
一本北側の緑地公園沿いの道へ入ります。



大泉緑地交差点
左端のJoshinの赤い看板」の左へ入ります


ちょっとうら寂しい感じですが、車通りは結構あります


東へ歩くこと15分位の所に堺中央綜合卸売市場があります。

大起水産、Joshin電機や回転寿司、焼肉屋さんなどもあります。


ここで第一回のひとり竹内街道は終了したいと思います。
2時間20分位で10kmちょい位でしょうか。


ここから一番近いのは西の地下鉄新金岡駅のようです
(ナビでは2.3kmで徒歩約30分、北の近鉄布忍駅は2.6km)。

市場の前に南海バス停「八下中学校前」がありますが、とりあえず
バスの本数がかなり少ないです;

急に思い立って来てしまったのでちゃんと調べておらず、
私は2時間に1本のバスに乗り損ねて家の者に迎えに来て貰うという
不手際でございました;;



お正月の買物で大賑わいでした

南海バス停「八下中学校前」


ともあれ、とりあえず滑り込みで今年中にブログになりました。
やれやれ;;

来年、ひとり竹内街道の続きも頑張ろう~と思いつつ、今年度のブログは
終了したいと思います。

歩いている場合でも、ブログを作っている場合でも無かった私・・・;;
これから黒豆をたきます。

このブログをもしかして見て下さった方、良いお年をお迎え下さい。
来年も良かったらよろしくお願いいたしますm(--)m




2013年12月20日金曜日

淡輪2~近つ飛鳥博物館れきしウォーク

 
宇度墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳)
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の宇度墓に治定

12月15日(日)に、近つ飛鳥博物館れきしウォーク
「淡輪の古墳をめぐる」で今年4月に行った淡輪を再び。
(過去ブログはこちら

1時半に南海淡輪駅を出発。
駅のすぐ南側にある宇度墓古墳へ。


北側造出し
この辺りから円筒埴輪片が採集されている


円筒埴輪は灰色でタタキ技法が用いられていることから須恵器の技術が
使われていると思われ、また底部に輪っか状の台を用いた痕跡があり
「淡輪技法」といわれます。

「淡輪技法」は紀ノ川河口域や三重県の伊勢湾岸、静岡県西部でも
確認されています。

底部の段は百済の影響かともいわれています。



5世紀中頃 前方後円墳(全長175m)
三段築成 盾形周濠 




南側造出し
南側の方が標高が高くこちらの濠の方が狭い




前方部 南側より
真ん中に拝所があります



陪冢6基(かつてはもう1基あったとされる)のうちの5基。
名前がきっと宇度墓陪冢「い号」「は号」とかあると思いますが、わかりません;


一番北側の円墳



上の円墳と線路を挟んである円墳
住宅の間にある↑円墳





一番南側の円墳



中央奥にうっすら見える方墳





宇度墓古墳から10分もかからない位の所に
西小山古墳があります。

国道26号線沿いにありますが、古い看板が倒れているだけで
何の標示もないので、気を付けていないと通り過ぎそうです;
北側に岬町上水道・府営水受水場があります。


5世紀半ば(もう少し古い?) 円墳(直径:約50m)
二段築成 造出し有り 埴輪列・葺石有り 周濠不明 
 

1922(大正11)年に史跡に仮指定されたものの、開墾の為に学術調査を条件に
史跡指定解除となった、史跡になりそびれた古墳です。

1930(昭和5)年に末永雅雄氏らによる発掘調査と、1981(昭和56)年に墳丘の
調査が行われています。



造出しは西側(見えている墳丘の向う側)

東西に主軸を置いた竪穴式石槨内(長さ:約3.3m)からは
三角板横矧板併用鋲留短甲2領などの武具や滑石製勾玉などが
出土していますが、特に金銅製眉庇付冑は鉄地に金鍍金した銅板を
貼り、庇に魚などが彫金されている極めて装飾性の高い冑ということです
(今は行方不明だそうで;)。

淡輪技法の円筒埴輪や、初期須恵器の器台片、大伽耶特有の陶質土器の
長頸壺片も見つかっています。

このような副葬品から、被葬者には朝鮮半島と関わりを持つ武人が想定され
紀小弓(きのおゆみ)の説があります。

紀小弓宿禰は『日本書紀』では雄略天皇の時代に新羅出兵した武将とされ
その死に際して妻・采女の大海(おしあま)大伴室屋大連に「どこに葬れば良いか」
と訴え、雄略天皇が「視葬者(はふりのつかさ)」の派遣を詔し、大伴連が土師連小鳥に
墓を「田身輪」に作らせたとあります。

淡輪って変わった地名だとずっと思っていましたが
田身輪(たみのわ?) → 淡輪(たんのわ) なんでしょうね。




西小山古墳から見た西陵古墳(左端の岡)

西小山古墳は、宇土墓古墳と西陵古墳のほぼ中間にあります。
南にもう10分程歩きます。




西陵古墳

5世紀前半頃 前方後円墳(全長:210m)
三段築成 埴輪は淡輪技法のもの

淡輪地域で最初に築造されたと考えられる大型前方後円墳で、
山側から海に向かってのなだらかな丘陵を切り取って作られています。

この地域は比較的狭い平野部しかない所に、古墳時代中期頃から
古墳が集中する、泉南地域では特殊な地域として知られているそうです。




国史跡
前方後円形と見られる堤を伴う周濠
現在の堤は後世の築造



前方部海側に3基の陪冢があったらしい



前方部東側から入れます



三段築盛がよく残っています



墳丘には葺石がごろごろ


西北側くびれ部にある造出し


広い造出し






前方部から後円部への傾斜



後円部
かつて長持形石棺の蓋石や竪穴式石槨の石材らしきものが露出
(現在は埋め戻されている)





西陵古墳から西小山古墳↑方向をみる





船守神社



西陵古墳から北東の方へ10分程歩いた集落の中にあります。

紀船守、紀小弓、五十瓊敷入彦命を祭神としています。

紀船守は、奈良時代の藤原仲麻呂の乱に活躍した人物で
没後正二位右大臣となり、和泉国に墳墓があるとされています
(『諸陵寮解』(11世紀))。

紀小弓は西小山古墳の被葬者かと言われています。

五十瓊敷入彦命は第11代垂仁天皇の皇子で第12代景行天皇の兄です。
茅渟の菟砥(うと)川上宮で作らせた大刀千口が石上神宮に納められ
物部氏が石上神宮を祀る由来となっているとのこと。

菟砥川上宮は泉南地域にあった5世紀後半の第19代允恭天皇の
時代の宮という説があるそうです。

泉南市に菟砥川がありますが、その河口がヤマト王権が管理した港で
宮は鉄器生産に関わる施設かもしれません。
港の近くでモノ作りがされることが多いそうです。






 
本殿(拝殿の奥)は三間社流造(重文)




 
境内の樟(大阪府天然記念物)



4時頃に淡輪駅に戻って解散しました。
来たことのある淡輪でしたが、知らない話がたくさんで
とても楽しいウォークでした。
近つ飛鳥博物館の学芸員さん、どうもありがとうございます。



より大きな地図で 淡輪 を表示