2013年12月20日金曜日

淡輪2~近つ飛鳥博物館れきしウォーク

 
宇度墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳)
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の宇度墓に治定

12月15日(日)に、近つ飛鳥博物館れきしウォーク
「淡輪の古墳をめぐる」で今年4月に行った淡輪を再び。
(過去ブログはこちら

1時半に南海淡輪駅を出発。
駅のすぐ南側にある宇度墓古墳へ。


北側造出し
この辺りから円筒埴輪片が採集されている


円筒埴輪は灰色でタタキ技法が用いられていることから須恵器の技術が
使われていると思われ、また底部に輪っか状の台を用いた痕跡があり
「淡輪技法」といわれます。

「淡輪技法」は紀ノ川河口域や三重県の伊勢湾岸、静岡県西部でも
確認されています。

底部の段は百済の影響かともいわれています。



5世紀中頃 前方後円墳(全長175m)
三段築成 盾形周濠 




南側造出し
南側の方が標高が高くこちらの濠の方が狭い




前方部 南側より
真ん中に拝所があります



陪冢6基(かつてはもう1基あったとされる)のうちの5基。
名前がきっと宇度墓陪冢「い号」「は号」とかあると思いますが、わかりません;


一番北側の円墳



上の円墳と線路を挟んである円墳
住宅の間にある↑円墳





一番南側の円墳



中央奥にうっすら見える方墳





宇度墓古墳から10分もかからない位の所に
西小山古墳があります。

国道26号線沿いにありますが、古い看板が倒れているだけで
何の標示もないので、気を付けていないと通り過ぎそうです;
北側に岬町上水道・府営水受水場があります。


5世紀半ば(もう少し古い?) 円墳(直径:約50m)
二段築成 造出し有り 埴輪列・葺石有り 周濠不明 
 

1922(大正11)年に史跡に仮指定されたものの、開墾の為に学術調査を条件に
史跡指定解除となった、史跡になりそびれた古墳です。

1930(昭和5)年に末永雅雄氏らによる発掘調査と、1981(昭和56)年に墳丘の
調査が行われています。



造出しは西側(見えている墳丘の向う側)

東西に主軸を置いた竪穴式石槨内(長さ:約3.3m)からは
三角板横矧板併用鋲留短甲2領などの武具や滑石製勾玉などが
出土していますが、特に金銅製眉庇付冑は鉄地に金鍍金した銅板を
貼り、庇に魚などが彫金されている極めて装飾性の高い冑ということです
(今は行方不明だそうで;)。

淡輪技法の円筒埴輪や、初期須恵器の器台片、大伽耶特有の陶質土器の
長頸壺片も見つかっています。

このような副葬品から、被葬者には朝鮮半島と関わりを持つ武人が想定され
紀小弓(きのおゆみ)の説があります。

紀小弓宿禰は『日本書紀』では雄略天皇の時代に新羅出兵した武将とされ
その死に際して妻・采女の大海(おしあま)大伴室屋大連に「どこに葬れば良いか」
と訴え、雄略天皇が「視葬者(はふりのつかさ)」の派遣を詔し、大伴連が土師連小鳥に
墓を「田身輪」に作らせたとあります。

淡輪って変わった地名だとずっと思っていましたが
田身輪(たみのわ?) → 淡輪(たんのわ) なんでしょうね。




西小山古墳から見た西陵古墳(左端の岡)

西小山古墳は、宇土墓古墳と西陵古墳のほぼ中間にあります。
南にもう10分程歩きます。




西陵古墳

5世紀前半頃 前方後円墳(全長:210m)
三段築成 埴輪は淡輪技法のもの

淡輪地域で最初に築造されたと考えられる大型前方後円墳で、
山側から海に向かってのなだらかな丘陵を切り取って作られています。

この地域は比較的狭い平野部しかない所に、古墳時代中期頃から
古墳が集中する、泉南地域では特殊な地域として知られているそうです。




国史跡
前方後円形と見られる堤を伴う周濠
現在の堤は後世の築造



前方部海側に3基の陪冢があったらしい



前方部東側から入れます



三段築盛がよく残っています



墳丘には葺石がごろごろ


西北側くびれ部にある造出し


広い造出し






前方部から後円部への傾斜



後円部
かつて長持形石棺の蓋石や竪穴式石槨の石材らしきものが露出
(現在は埋め戻されている)





西陵古墳から西小山古墳↑方向をみる





船守神社



西陵古墳から北東の方へ10分程歩いた集落の中にあります。

紀船守、紀小弓、五十瓊敷入彦命を祭神としています。

紀船守は、奈良時代の藤原仲麻呂の乱に活躍した人物で
没後正二位右大臣となり、和泉国に墳墓があるとされています
(『諸陵寮解』(11世紀))。

紀小弓は西小山古墳の被葬者かと言われています。

五十瓊敷入彦命は第11代垂仁天皇の皇子で第12代景行天皇の兄です。
茅渟の菟砥(うと)川上宮で作らせた大刀千口が石上神宮に納められ
物部氏が石上神宮を祀る由来となっているとのこと。

菟砥川上宮は泉南地域にあった5世紀後半の第19代允恭天皇の
時代の宮という説があるそうです。

泉南市に菟砥川がありますが、その河口がヤマト王権が管理した港で
宮は鉄器生産に関わる施設かもしれません。
港の近くでモノ作りがされることが多いそうです。






 
本殿(拝殿の奥)は三間社流造(重文)




 
境内の樟(大阪府天然記念物)



4時頃に淡輪駅に戻って解散しました。
来たことのある淡輪でしたが、知らない話がたくさんで
とても楽しいウォークでした。
近つ飛鳥博物館の学芸員さん、どうもありがとうございます。



より大きな地図で 淡輪 を表示

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