2013年10月31日木曜日

塚穴古墳(久目皇子墓古墳)

小口山古墳から峰塚公園を西へ出て、寺山・善正寺跡の
説明板のある広い道を通るのも良いですが、住宅街を西に
抜けて大阪府立呼吸器・アレルギー医療センターの方へ出ると
塚穴古墳があります。

塚穴古墳は、聖徳太子の弟の久目皇子の墓とされています。


    ↑ ここを入って行きます
 ↑         ここに説明石碑があります


拝所のある南側の外堤は二段築成(16m)
南側からの景観が意識された造り



久目皇子埴生崗上墓と治定されている
方墳(1辺:約55m) 7世紀初頭
二段築成

明治時代に描かれた絵図により、明日香村の岩屋山古墳と
よく似た美しい切石積みの両袖式横穴式石室であることが
わかっています。

久目皇子は603(推古11)年に征新羅将軍として赴任途中で
亡くなったと『日本書紀』に記されており、この古墳が久目皇子の
墓の可能性は高いということです。


この古墳は羽曳野丘陵の北端辺りですが、この古墳の前の
道を北へ下ると野中寺へ当たります。

最寄駅からは不便ですが、駐車場はありません。
近鉄古市駅からは歩くと30分位だと思います。




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2013年10月30日水曜日

古市古墳群4~峯ヶ塚古墳

白髪山古墳(清寧天皇陵古墳)から北へ5分程歩くと峰塚公園があり
その一角に峯ヶ塚古墳があります。


左:峯ヶ塚古墳 右奥:前の山(日本武尊白鳥陵)古墳
公園の展望広場より
 



峯ヶ塚古墳 南より 左側が前方部
国史跡
前方後円墳(全長:96m) 5世紀末頃


後円部から、現時点では竪穴式石室と考えられる石室が
見つかり、総数3,500点以上の副葬品が出土しています。

数が多いだけでなく貴重な副葬品とされるものが多く有り
陵墓には指定されていない古墳ですが、大王級の被葬者が
想定されます。

刳抜き式の舟形石棺は阿蘇産の二種類の色調の溶結凝灰岩製で
長持山2号墳と同じく蓋と身で色調が異なっていたと考えられるとのこと。

銀製捩じり環頭や魚佩・木製刀装具を備える伝統的な大刀などや
渡来系要素が強い金・銀製品の副葬品から古墳時代中期から後期への
過渡期の古墳といえるようです。


※古市古墳群の古墳については『古市古墳群を歩く』を参考にしています。

 
北側に造出し有り
本来は二重濠が巡っていた
形象埴輪を伴う祭祀が内堤へ移行していたと思われる


後円部側に古い説明板がありますが
北側の道路側に新しい説明板があります






小口山古墳

峰塚公園は丘陵の端で、西側は丘陵を上がって行きます。
その一角に小口山古墳があります。


この展望広場を少し上がった辺りにあります




円墳(径:30m) 7世紀後半頃
横口式石槨(凝灰岩刳り貫き)

長さ:2.13m 幅:0.87m 高さ:0.63m
意外と小さい印象です





二上山が遠望できる広々とした公園です
東側に有料駐車場有り(5時間まで300円)
近鉄古市駅から西へ徒歩約15分




寺山・善正寺跡

小口山古墳からそのまま公園を出て、少し北のバス通りの道の
斜面を上がっていく途中の道端に、寺山・善正寺跡の説明板が
あります。




↑ ここにあります
ハーベスというスーパーを過ぎてもう少し坂を上ったバス停の道向かい

この善正寺があった辺りは寺山といわれ、竹内街道が通る交通の要所
であり、終末期古墳が多くみられるようです。

平安時代の文献に、野中寺以南の寺山は船・葛井・津の三氏の墓地で
あったと記されているそうです。

野中寺を船氏・葛井寺を葛井氏・善正寺を津氏の氏寺に比定されていますが
善正寺を船氏の氏寺とする説もあるそうです。

このお寺だけ全く残ってないですね~
廃れたから墓域になったのか、単に山だったから墓域になったのか?


小口山古墳の被葬者も善正寺の関係者の可能性があるようです。




善正寺は右手(南)100mの寺域に白鳳期の薬師寺式の伽藍
善正寺独自の模様の瓦や白メノウの礎石を使用
造営氏族の勢力の大きさがわかります







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2013年10月29日火曜日

古市古墳群3~白髪山古墳(清寧天皇陵古墳)・小白髪古墳

百舌鳥古墳群にかまけて古市古墳群がさっぱりでしたので・・・

白髪山古墳(清寧天皇陵古墳)は、古市古墳群の南端に近い所
にあります。

 
第22代清寧天皇の河内坂門原陵に治定されている
前方後円墳(全長:115m)  6世紀前半頃 
二段築成(後円部に横穴式石室の存在が推定される)
北側造出し有り

 
前方部両端に水量調節用の土手有り
二重目の濠が確認されている
中央奥に前の山古墳(日本武尊白鳥陵↑古墳)が見える
 


小白髪山古墳は、白髪山(清寧天皇陵)古墳の東側(後円部側)から
約30mの間隔をおいて築かれています。


前方後円墳(全長:46m)  6世紀前半頃
盾形の周濠(約12m)が推定される




外環状線を挟んでいるので、近くの横断歩道か歩道橋を
渡らなければならないので見えている割には近くはないですが、
主軸を共有していることと、両古墳から出土した円筒埴輪の
特徴がよく似ていることから、主墳と陪塚の関係があると思われます。

よく陪塚に指定されているもので、こんなに遠いのに?とか
こんなに大きいのに?とか思うものがありますが、これはまず
間違いなさそうな陪塚と思われます。


右端の山が白髪山(清寧天皇陵)古墳   ↑ 


近鉄古市駅から西へ小白髪山古墳は徒歩約10分、
白髪山(清寧天皇陵)古墳はさらに5分。

どちらの古墳も住宅に囲まれているので、車はお薦めできません。

特に白髪山(清寧天皇陵)古墳は拝所の前に駐車スペースはありますが
開放されてないと思いますので(私が行った時はチェーンがかかっていました)
徒歩が無難だと思います。




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2013年10月9日水曜日

柴籬神社

河内松原駅から南へ徒歩約10分程の所に
柴籬(しばがき)神社があります。

反正天皇の丹比柴籬宮の伝承地です。
(去年の9月に行った時の写真です)


反正天皇柴籬宮址の碑



第24代仁賢天皇の勅命により創建され、第18代反正天皇を祭神
とする神社。

反正天皇は難波から丹比へ宮を移し、柴籬宮を造営したそうです。

特に宮であったとする遺構などは見つかっていないませんが、字名など
から有力な候補地だそうです。




この地は丹比道(竹内街道)と大津道(長尾街道)の中間にある





拝殿
反正天皇の名が瑞歯別命であることから歯の神様とも


明治に東側にある河内大塚山古墳にあった天満宮(大塚社)を合祀
同時に移された河内大塚山古墳の石室材を使ったと思われる手水鉢


反正天皇の次に即位した允恭天皇は大和の飛鳥に宮を移したため
その宮跡が「松生いし、丹比の松原」とよばれ、それが市名「松原」と
なっているそうです。

柴籬神社の前の道も昔は松並木だったとのこと。

何故反正天皇の兄の孫にあたる仁賢天皇がこの神社を建てたんでしょうね~



ちなみに神社のすぐ北側に松原市民ふるさとぴあプラザというきれいな
施設があって、郷土資料館もありました。




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2013年10月8日火曜日

丹比神社・丹比廃寺

黒姫山古墳から東の方に、黒姫山古墳の被葬者と思われる
丹比氏の神社と氏寺と思われる所があります。

丹比(たんぴ)神社


式内社 
御祭神:火明命・瑞歯別命



この辺りは第18代反正天皇の河内丹比宮の伝承地で、反正天皇の御名代の制
による丹比部として設置された地域を統括した丹比連の祖神を祀ったのが創建と
思われます。

反正天皇(多遅比端歯別(たじひのみずはわけのみこと))の産湯井戸伝承があります。





鳥居の向かって左側に2台分だけ駐車場があります
駐車場はぐるっとまわって境内にもとめれます
 




拝殿



神社から東へ長くのびる参道の鳥居
東向きに建てられているのは珍しいそうです
 





丹比神社から少し東に丹比廃寺(たんぴはいじ)塔跡があります。


この地に弘法大師にょり開創された徳泉寺という寺院があったと
されていましたが、それより以前の7世紀後半の軒丸瓦、塔心礎・礎石
などが見つかっていました。

平成20年の発掘調査で、版築を伴う塔基壇である可能性が大きくなり
丹比(たじひ)氏が建立した白鳳寺院と考えられます。


大阪府指定史跡
コンクリートで覆われています




心礎や礎石があります
元の位置からは動かされています



心礎
かなり色あせてしまった説明板があります  ↑




心礎



塔跡と市道を挟んで同様にコンクリートで覆われた基壇状の高まり
があって、丹比廃寺と関係があるとは思われますが、金堂や講堂
などは一切不明です。


市道をはさんで南北に基壇状高まりが残る
右(南)が塔跡


北側の基壇状高まり
南北の基壇状高まりの高さは約1.2m





駐車場はありません。
道もそれほど広くないので、ちょっと広い所にとめるくらい
しかできませんが、車で来ないととても不便な所です。


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2013年10月5日土曜日

今宮神社 あぶり餅

京都の北野天満宮近くに用事で来ましたら
母がこのあたりにあぶり餅があって美味しいと
聞いたと言いだし、それは今宮神社のことやで
ということで、食べにやってきました。


今宮神社東門より 両脇にあぶり餅屋さんがあります
左側が一和 右側がかざりや



いくらあぶり餅が目当てで神社の名前も間違っていた
私達でも、お参りはさせていただきます。スミマセン;

私は大阪の人間なので、今宮といえばえべっさんで
商売繁盛の神様だと思い込んでおりました。スミマセン;;
「今宮」というのは「新たに設ける宮」という意味だそうです。


こちらの神社は平安建都以前より疫神を祀る社があったといわれ
古来疫病除けの神様として崇められていたそうです。

4月に行われる「やすらい祭」は「太秦の牛祭」「鞍馬の火祭」とともに
京の三奇祭の一つで、民俗無形文化財の指定を受けています。

花の精にあおられて陽気の中に飛散するという悪疫 を、囃子や歌舞に
よって追い立てて花を欺く風流傘に宿らせ、紫野疫社に送り込み神威を
仰いで鎮めるというのがこの祭の行法である(今宮神社HPより)。




本殿(1902年再建)
御祭神:大己貴命・事代主命・奇稲田姫命


江戸時代に3代将軍家光の側室で、5代将軍綱吉の生母・桂昌院が
西陣の八百屋の娘であったことから荒廃していた社殿の造営などを
行い、今では玉の輿神社とも言われているそうです。

ちなみに玉の輿の語源の由来は桂昌院の名がお玉であったことから
という説もあるそうです。



楼門
手入れの行き届いた美しい境内です




東門を出て、さてどちらのあぶり餅屋さんに入ろうかと
誰しも迷うと思います。
どちらも値段も同じで味も同じようだそうです。

数年前にかざりやさんの方に入ったことがあるので
今回は一和(一文字屋和輔)さんに入りました。



営業時間 10時~17時
水曜定休(1日・15日・祝日の場合は翌日休)
 
家に帰ってから知ったのですが、創業は平安時代で千年!
かざりやさんは江戸時代の創業で400年。
一和さんは日本で一番古い和菓子屋さんと言われているそうです。
さすが京都・・・



きな粉をまぶした餅を小さく丸めて竹串に刺して炭火であぶります
竹串は今宮神社に奉納された斎串(いぐし)だそうです
白味噌のたれがかかります
 


あぶった餅の焦げ目と白味噌のたれの甘さが
絶妙な感じで美味しいです。
類似品が思いつかない食べ物です。
お茶もおいしかったです。



一人前15本500円
持ち帰りもありますがこの美味しさはあぶりたてがいいと思います


駐車場は今宮神社の東側にあります。
どちらのあぶり餅やさんでも駐車券を発行してくれます。





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