「第51回大福から香久山周遊へ」に参加させていただきました。
この日は朝から暑いくらいの好天。
8時半に近鉄大福駅に集合して南へ歩き出します。
大福という地名は大仏区からきてるそうです。
この辺りは昔興福寺の荘園だったそうで、春日神社が
多いそうです。
(東大寺の南にある興福寺は藤原氏の氏寺で、藤原氏の
氏神が春日大社です)
最初に訪れたのは横内神社です。
ここは推古天皇の時代に出来た横大路(当時の国道1号線
ともいうべき道)に接する、コウロン(当時の役人に講義をする所)
のあった地だそうです。
御祭神は撞賢木厳御魂天疎向津姫命 |
横大路が江戸時代に伊勢街道と呼ばれるようになり 伊勢に関わる神様を祀るようになったとか |
春日神社
しばらくのどかな道を歩いていると小高い土手が
見えてきました。
吉備池廃寺です。
左奥の木のある所が金堂跡 国指定史跡 |
説明してくださった大脇先生によりますと、奈良文化財研究所(だったかな・・・)
にお勤め だった1976(昭和51)年当時、この地で盗掘が行われて
いるという電話を受けて来ると、7世紀の瓦が散乱する中に1点だけ
瓦に須恵器(杯蓋)がくっついているものがあったため瓦陶兼業窯か
と思われました。
池の水を抜く冬に発掘調査することになったものの、春にずれ込んだ
ために行えず、そのまま先生も異動になり、忘れ去られて20年が経過
した1997(平成9)年、ようやく調査が実現し、巨大な寺院址であることが
わかりました。
吉備池廃寺は永らく所在が謎であった百済大寺とほぼ断定されています。
百済大寺は639年に舒明天皇が発願した寺院です。
池の南東に説明板があります |
金堂跡 基壇の規模:37×25m 7×4間 |
塔跡 基壇の規模:一辺32m 方7間の九重塔があったとされる 左が二上山 右が香久山 |
池の西岸から 大伯皇女の万葉歌碑もあります |
グラウンドのある所から入ります 右が池です |
池の北側に春日神社があります 磐余池辺双槻宮の伝承があるらしい |
吉備池跡から西へ歩いて稚櫻神社へ。
履中天皇の磐余稚櫻宮の候補地の一つ |
本殿は高台にあります |
稚櫻神社から西へ5分程歩いたところが
「磐余池(いわれいけ)」堤跡推定地です。
左側の森は御厨子観音 御厨子(みずし)は元は水尻で池に関係した名とのこと |
道路建設に際して見つかった池の堤で、6~7世紀の
土器が出土していますが、『日本書紀』の磐余池の
記述をそのまま信じればば5世紀前半ということもあり
橿原市は磐余池だと積極的ですが、今の時点では
もう少し何か決定的なものが必要ではとのことです。
磐余池の場所を特定できれば、磐余の名がつく宮の
解明などにつながるのではと期待されます。
池堤は右手(東側)へ続いていてかなり大きい池のようです |
私は午後に所用ができて、ここで橿原市昆虫館へ行かれる
一行と別れて耳成駅に向かいました。
残念ですが、少し時間があるのでいただいたレジメにあった
膳夫寺跡に寄って帰ることにしました。
膳夫寺(かしわてでら)跡
膳夫寺跡にある保寿院 |
境内にある礎石(中央の木の手前と後ろ側の二つ) |
聖徳太子の妃・菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)が
建立したとも伝えられます。
菩岐岐美郎女は聖徳太子に最も愛された妃といわれ、
また太子の亡くなる前日に亡くなって、太子とその母と
共に叡福寺北古墳(磯長陵)に合葬されたとされます。
余談になりますが、娘の舂米(つきしね)女王は異母兄で
ある山背大兄王の妃になり、妹の膳比里古郎女は太子の
弟の来目皇子の妃となっています。
聖徳太子とはかなり濃い関係ですね~。
膳夫寺跡の南隣にある三柱神社はかまど・火の神様を祀る 膳臣が食関係の仕事だったからのようです |
膳臣は同族の安倍氏と共に朝廷・天皇の食事の調製と
供膳を職掌とした氏族で、朝鮮半島との外交に活躍した
人物も多いようです(のち高橋朝臣と改める)。
吉備池廃寺の東側は安倍寺跡など安倍氏ゆかりの地です。
左奥が膳夫寺跡 真ん中は三柱神社の鳥居 右の茶色い建物は香久山小学校の校舎 この辺り一帯が膳夫寺だったようです |
20分程歩けば耳成駅ですが、耳成駅に着くちょっと手前が
横大路が交差する所です。
最初の横内神社で説明を聞いた時、横大路はどこかなと
思っていたので、ちょうど帰り際に出会えてラッキーです。
横大路は東西に通っています |
北側に近鉄が南側にJRがあります |
今日は以前から行きたかった吉備池廃寺に行けて良かった
のですが、午後から行くはずだった興福寺(八釣地蔵尊)や
奈良文化財研究所藤原宮跡資料室などと併せて、近々自分で
まわろうと思います。
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