2013年6月6日木曜日

香久山周遊


5月26日(日)に桜井市の「鎮守の森を観に行こうかい」の
「第51回大福から香久山周遊へ」に参加させていただきました。

この日は朝から暑いくらいの好天。
8時半に近鉄大福駅に集合して南へ歩き出します。

大福という地名は大仏区からきてるそうです。
この辺りは昔興福寺の荘園だったそうで、春日神社が
多いそうです。
(東大寺の南にある興福寺は藤原氏の氏寺で、藤原氏の
氏神が春日大社です)


最初に訪れたのは横内神社です。

ここは推古天皇の時代に出来た横大路(当時の国道1号線
ともいうべき道)に接する、コウロン(当時の役人に講義をする所)
のあった地だそうです。


御祭神は撞賢木厳御魂天疎向津姫命


横大路が江戸時代に伊勢街道と呼ばれるようになり
伊勢に関わる神様を祀るようになったとか



春日神社



しばらくのどかな道を歩いていると小高い土手が
見えてきました。




 

吉備池廃寺です。

左奥の木のある所が金堂跡
国指定史跡


説明してくださった大脇先生によりますと、奈良文化財研究所(だったかな・・・)
にお勤め だった1976(昭和51)年当時、この地で盗掘が行われて
いるという電話を受けて来ると、7世紀の瓦が散乱する中に1点だけ
瓦に須恵器(杯蓋)がくっついているものがあったため瓦陶兼業窯か
と思われました。
池の水を抜く冬に発掘調査することになったものの、春にずれ込んだ
ために行えず、そのまま先生も異動になり、忘れ去られて20年が経過
した1997(平成9)年、ようやく調査が実現し、巨大な寺院址であることが
わかりました。

吉備池廃寺は永らく所在が謎であった百済大寺とほぼ断定されています。

百済大寺は639年に舒明天皇が発願した寺院です。

池の南東に説明板があります


金堂跡    
基壇の規模:37×25m 7×4間



塔跡  
基壇の規模:一辺32m 方7間の九重塔があったとされる
左が二上山 右が香久山


池の西岸から
大伯皇女の万葉歌碑もあります


グラウンドのある所から入ります
右が池です
池の北側に春日神社があります
磐余池辺双槻宮の伝承があるらしい



吉備池跡から西へ歩いて稚櫻神社へ。

履中天皇の磐余稚櫻宮の候補地の一つ

本殿は高台にあります


稚櫻神社から西へ5分程歩いたところが
「磐余池(いわれいけ)」堤跡推定地です。


左側の森は御厨子観音
御厨子(みずし)は元は水尻で池に関係した名とのこと



道路建設に際して見つかった池の堤で、6~7世紀の
土器が出土していますが、『日本書紀』の磐余池の
記述をそのまま信じればば5世紀前半ということもあり
橿原市は磐余池だと積極的ですが、今の時点では
もう少し何か決定的なものが必要ではとのことです。

磐余池の場所を特定できれば、磐余の名がつく宮の
解明などにつながるのではと期待されます。



池堤は右手(東側)へ続いていてかなり大きい池のようです





私は午後に所用ができて、ここで橿原市昆虫館へ行かれる
一行と別れて耳成駅に向かいました。

残念ですが、少し時間があるのでいただいたレジメにあった
膳夫寺跡に寄って帰ることにしました。



膳夫寺(かしわてでら)



膳夫寺跡にある保寿院


境内にある礎石(中央の木の手前と後ろ側の二つ)


膳夫寺は膳(かしわで)臣の氏寺とされ、膳臣傾子の娘で
聖徳太子の妃・菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ)
建立したとも伝えられます。

菩岐岐美郎女は聖徳太子に最も愛された妃といわれ、
また太子の亡くなる前日に亡くなって、太子とその母と
共に叡福寺北古墳(磯長陵)に合葬されたとされます。

余談になりますが、娘の舂米(つきしね)女王は異母兄で
ある山背大兄王の妃になり、妹の膳比里古郎女は太子の
弟の来目皇子の妃となっています。
聖徳太子とはかなり濃い関係ですね~。



膳夫寺跡の南隣にある三柱神社はかまど・火の神様を祀る
膳臣が食関係の仕事だったからのようです
 

膳臣は同族の安倍氏と共に朝廷・天皇の食事の調製と
供膳を職掌とした氏族で、朝鮮半島との外交に活躍した
人物も多いようです(のち高橋朝臣と改める)。

吉備池廃寺の東側は安倍寺跡など安倍氏ゆかりの地です。


左奥が膳夫寺跡 真ん中は三柱神社の鳥居 
右の茶色い建物は香久山小学校の校舎
この辺り一帯が膳夫寺だったようです



20分程歩けば耳成駅ですが、耳成駅に着くちょっと手前が
横大路が交差する所です。

最初の横内神社で説明を聞いた時、横大路はどこかなと
思っていたので、ちょうど帰り際に出会えてラッキーです。

横大路は東西に通っています



北側に近鉄が南側にJRがあります
















今日は以前から行きたかった吉備池廃寺に行けて良かった
のですが、午後から行くはずだった興福寺(八釣地蔵尊)や
奈良文化財研究所藤原宮跡資料室などと併せて、近々自分で
まわろうと思います。




2013年6月4日火曜日

馬見古墳群を歩く

5月19日(日)は暑いほどの好天でしたが(ちょっと前になりますが;)
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
春季特別展「5世紀のヤマト~まほろばの世界~」
遺跡見学会「馬見古墳群を歩く」
に、参加しました。

馬見丘陵公園 北エリア 10時集合
説明してくださったのは学芸員の坂さん


国際博物館の日記念事業とやらで、事前申し込みもいらず
参加費も無料という太っ腹な見学会で、聞けば150人程の
見学会となったようで、こんなに大人数の見学会には初めて
参加しました。

ボランティアの方とかいらっしゃいましたが、引率して説明して
くださったのは基本学芸員の方お一人なので、ちょっとわから
ないから質問してみようとかはちょっとできにくく、とりあえず沢山
馬見古墳群の古墳を見てきました。



北エリアの集いの丘から池上古墳の方を見る
↑   左の小山が池上古墳

池上古墳は帆立貝式古墳としては全国屈指の規模ですが、
埴輪や葺石はとても小振りで、また埴輪は疎らに配置され
後円部基底部の葺石は省略されているそうです。

ちなみに、この馬見丘陵の辺りは石があまり取れない地域
だそうで石棺は少ないそうです。


5世紀前半 全長92m
西側外堤上に池上2号墳、東側に池上3号墳有り



馬見丘陵公園館

馬見丘陵公園はとても広いのですが、その真ん中辺り
にあり、ちょっとした資料館のように古墳の説明や遺物の
展示があります。



地図なども貰えます


次に行く乙女山古墳出土の家型埴輪




鏡の模様をデザインしたロビー





新山古墳出土の直弧文鏡を参考にしたデザインだとか


乙女山古墳

奈良県最大の帆立貝式古墳ですが、後円部の東側に
前方部が取り付き、西南部に造り出しがある古墳で、
帆立貝式古墳は前方後円墳の前方部を短くしたという説と
円墳の造り出しが発達したという説がありますが、この古墳
は両方あるのでどうなんでしょうねえ・・・

前方部というのは被葬者の階層を明示する為のもので、
造り出しは祭祀を行った所と言われています。



国史跡 
5世紀前半 全長130m
幅広い外堤が良く残っています
乙女山古墳の東側より





乙女山古墳から一本松古墳方向を見る


前方のカタビ古墳群に向かいます



カタビ古墳群


ただの芝山に見えますが・・・;
芝生で古墳の位置を示しているそうです;



1号墳方墳 3号墳円墳(24m) がある・・・らしい;







別所下古墳
 
4世紀後半の円墳(全長60m)と想定される
北側に別所下2号墳(円墳・約15m)有り

佐味田石塚古墳群

公園西側の県道工事に伴い確認された古墳で
公園内に移築されたものです。

7世紀中頃築造と思われます






ナガレ山古墳の陪塚と考えられている
東1号墳・東2号墳

ナガレ山古墳の北側にも5基の円墳があるとのこと。

東2号墳(円墳) 6世紀後半と思われる


東1号墳(方墳) 5世紀前半と思われる
































ナガレ山古墳

国指定史跡



この古墳のくびれ部には、墳丘上にのぼる通路状の埴輪列が
見つかっており、古墳における祭祀がどのように行われていた
のかということなどへの解明に役立つかもしれません。
今のところ、ここでししか見つかっていないそうです。



前方後円墳(全長105m) 5世紀前半


埴輪列の外側に人一人通れる位の空間が空いています


くびれ部からは滑石製模造品・勾玉・臼玉などが出土


東半分だけ当時の復元整備がされている
前方部に粘土槨が出土している


 

見晴らしの良い所にあります


















ダダオシ古墳

前方後円墳(全長50m) 6世紀初頭と思われる


竹取公園でお昼の休憩


竹取物語の舞台という伝説があるそうです




箸尾遺跡の遺構を元にした古墳時代の復元住居
 
ねずみ返し


西へ開けていて二上山がよく見えます


長いすべり台などの遊具が沢山あって楽しそうな公園です

三吉一番地古墳の石室



竹取公園から10分程歩いたところにある
復元整備された古墳の三吉(みつよし)石塚古墳です。

 
帆立貝式古墳(全長45m) 5世紀後半
↑    前方部南東隅に他に例を見ない張出部有り

すぐ東側に新木山(にきやま)古墳という全長200mの大きな
前方後円墳があり、その外堤西側に築造されていますが
新木山古墳は5世紀中頃の築造とみられ、三吉石塚古墳は
陪塚ではないと思われるそうです。

前方部の葺石は葛城市西方に分布する黒雲母花崗岩で、
後円部の葺石は香芝市の二上山麓で採れる輝石安山岩
というのが興味深いです。



墳頂より新木山古墳後円部を見る



来た道を戻る途中に、東側にイノワ古墳群があります。

再び馬見丘陵公園に戻り、馬見古墳群最大の
巣山古墳へ。

国指定特別史跡
前方後円墳(全長220m) 4世紀末
右が後円部ですが写りきってません;



前方部西側に島状施設と石敷き状の施設がある
整備する予定だそうです
 

北から前方部を見る
左端の周濠の北東角で直弧文を施した構造船が出土
この北側外堤の古墳の中軸延長線上から直弧文を施した船形埴輪が出土



三吉2号墳は巣山古墳の陪塚と思われます。


帆立貝式古墳(全長93m) 4世紀末
巣山古墳との間に三吉3号墳(方墳・12m)有り


佐味田狐塚古墳


帆立貝式古墳(全長78m) 4世紀末と思われる
 

 
道路建設により古墳が分断されている
墳丘の範囲が奥の緑色で道路に表示されているところ
 

公園の南エリアから中央エリアへ行く陸橋の下には
巣山古墳の外堤をはぎ取ったものなどが展示されています。






倉塚古墳

どれやねん;という感じですが、真ん中の薄い芝の所です。

前方後円墳(全長180m) 4世紀中頃



一本松古墳

前方後円墳(全長145m) 4世紀末
東側に一本松2号墳(方墳・15m)有り



文代山(ぶんしろやま)古墳

これもどれやねん;という感じですが、真ん中の林です(多分・・・)
この古墳から出土したという長持形石棺の底石が、
牧野古墳に保存されているそうです。なんでかな?

方墳(一辺48m) 5世紀後半代

以上の古墳を巡り、夕方終了しました。

2週間以上経ってようやくアップするという不手際で、元々かなり
大人数の見学会で写真もあまり撮れてなくて、もしかしてただの
植込みを写してるのではという懸念もあります;

当日はかなり暑い日でへばってしまいましたが、こういう機会でも
ないとなかなか気付かない古墳など沢山案内していただいとことに
本当に今更ながら感謝しております。
150人もの人間を引率されるのは本当に大変だったのではと思います。
ありがとうございました。


馬見丘陵公園の古墳は、色々な保存の仕方をしているそうです。
ナガレ山古墳は半分復元整備していますが、芝生で保存したり、
そのまま木も生え放題にしていたりと、さまざまだそうです。

どれがいいのかわかりませんが、ともかくも整備が行き届いた
きれいな公園です。
のんびり座っているだけでもお薦めの公園です。